どこかで花が咲くように、この歌をこの世界に置いておきます。

 2026年5月22日に“wacci”が新曲「人生最終日の僕よ」をリリースしました。そのタイトルとは裏腹に“今をいかに生きるか”にフォーカスを当てた心に刺さる歌詞と、結成17年目を迎え円熟味を増した演奏にメランコリックなストリングスが融合し、幾重にも重なるようなメロディーが印象的な“人生賛歌”とも言えるミディアムナンバー。
 
 さて、今日のうたではそんな“wacci”の橋口洋平による歌詞エッセイをお届けします。綴っていただいたのは、新曲「人生最終日の僕よ」にまつわるお話です。42歳を迎え、人生の折り返し地点に立った今の気づきとは。そして、この歌に託した思いは…。



昨年の12月から42歳として生きている。
人生80年とした場合、半分を過ぎたということになる。
 
未来、人生、夢、幸せ。
そういった言葉たちは、昔は、何か実感を伴わないとてつもなく大きなものに思えた。
なかなか具体的に描くことはできなかったし、どこかでまだまだ先の話だと見て見ぬふりをしていた。
まだ何者でもないけれど、その気になれば何にでもなれると思っていた。
明日から生まれ変わったように努力すれば、どんな夢も叶うと思っていた。
 
そんな感覚だったが、40歳を過ぎてから、少しこの世界の見え方が変わってきた。
 
ほんの僅かな“叶った夢”と、膨大な数の“もう叶えられない夢”。
出来損ないと言わざるを得ない、不器用を晒した数々の瞬間。
頑張りたいと思いながら、頑張ることを選べなかった日々。
なんとなくずっと続くと思っていた関係性の喪失。大切な誰かとの別れ。
 
半分を生きて、見える景色や自分の立ち位置をもって考えた時に、この先の人生を、この先の未来を、なんとなく計算で割り出せてしまったような感覚。
 
僕というこの物語は、なんとなくこんな感じに収まるんだろう。
そんな気持ちになって、寂しさとも悟りとも違う、不思議な感情が沸き起こった夜があった。
 
 
例えば、地図を頼りに初めての場所に歩いて行くとき、往路はとても長く感じるが、復路は短く感じることがよくある。
 
知らないものほど大きく感じ、知ると一気に自分の世界の中に収まるため小さく感じるあの感覚と同じように
今、半分を生きて突然、自分の未来の長さを知り、人生の全貌が明らかになったように感じたのだと思う。
 
 
 
「人生最終日の僕よ」は、そういった気づきから生まれた一曲だと言える。
もちろんそんな感情に何か答えを用意したわけではないし、そんな資格もない。
 
ただ、同じような気持ちを抱きながら、今日を生き、明日を見据える人と共にありたい。
季節が巡るようにただ受け入れて、それぞれに違う今の立ち位置から人生の終着点を見据えて、そこまでの日々の中で一度でも多く笑って、一つでも多く幸せを拾えるように。
いつかゴールにたどり着いたときに振り返って、そのいびつさと、情けなさと、ふがいなさと、愛おしさに、心の底から泣けるように。
 
諦めや焦り、悲壮感ではなく、これまで生きてきたことへの称賛と、これから訪れるであろう未来への希望を込めて。
 
どこかで花が咲くように、この歌をこの世界に置いておきます。
 
もし手にしたら、感想を是非ください。
一緒にわかちあいましょう。
 
<wacci・橋口洋平>



◆紹介曲「人生最終日の僕よ」
作詞:橋口洋平
作曲:橋口洋平